黒猫 サビ猫 毎日が三拍子

人生は三拍子、ときに変拍子。

犬の玩具

病を抱えながら一人暮らしを続けていた76歳の叔父が、ついに力尽きて入院した。

もうこれ以上、治療ができないため、普通の病院ではなく、限りなくホスピスに近い看護付き老人施設だ。

たぶん、もう家には戻れないだろう。 

 

先日、母と長兄である伯父と私の3人で、主のいない叔父の部屋に短い間、集まった。

ずっと独身で通した叔父には自分の家族はいない。

介護保険でレンタルしていたベッドの返却に立会い、きれい好きの母によって不要物がほとんど片付けられた居間で、母と伯父が今後のことを話しあっていた。

といっても、伯父はほとんど耳が聞こえないので、母がホワイトボードを持っての筆談だ。

「Xデーがきたら葬式はどうするか」とか、けっこう深刻な話なのだが、ホワイトボードとマーカーを使っての老人同士の会話なので、なんとなくのんびりと間が抜けている。

 

叔父の部屋は、12階建ての新築の県営住宅。エレベーター付きで、マンションと相違ない外観。

抽選倍率の高い人気物件だが、同じ敷地内に建っていた老朽化した前の住宅の住人を優先的に、ということでラッキーにも、希望通りの部屋に入居できたらしい。

8階にある南向きのその部屋は、老人の一人暮らしには広すぎるほど広い3LDKで、駿河湾が一望でき、日当たり、風通し抜群。おまけに家賃は、びっくりするほど安い(それは叔父が年金暮らしの低所得者だからだが)。

せっかく、こんないい部屋に恵まれたのだから、もっと長く、この部屋に住んでいたかっただろうに。

私は、病を抱えた叔父が、この部屋で一人、何を考え、どんな風に生活していたんだろう等と思いながら、真夏でもエアコン要らずの快適な窓辺で、ぼんやり風に吹かれた。

 

「これ、病室に持っていってやろうかねぇ」 と、突然、母の声がした。

 

振り返ると、母が犬の玩具を持って立っている。

それは、全長が大人の肩幅くらいのフワフワとした手触りの犬のぬいぐるみだった。

しかし、ただのぬいぐるみではなく、電池で動くらしい。人の声に反応して、鳴いたり、甘えたり、しっぽを振って歩いたりする、あのアイボのローテク版みたいなものだ。母は言った。

「あの子(母にとっては70代の老人でも、手のかかる末の弟だ)、これ、自分で買ったんだって」

「ふうん」

私は、一人暮らしの老人が、電池で動く、子供用の犬のぬいぐるみを買うところを想像した。お孫さんへのプレゼントですか、なんて聞かれたのだろうか。なんだか胸が痛くなりそうなので、あまり考えないことにしてすぐに答えた。

「持っていってやりなよ」

「でも4人部屋だから、他の人に迷惑がかからないかねぇ」

「電池を抜いて、鳴かないようにすればいいじゃん」

「そうだねぇ。そうしようか」

母は、どこからか犬の玩具の空き箱をさがしてきて、持ち帰るためにしまい始めた。そんな母を横目に、私はまた、この部屋で叔父がどんな風に暮らしていたんだろうと思いながら、ぼんやり風に吹かれた。

 

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